Letter # 20

ジョージアの別れは45分かかる

ジョージアの時間感覚:非公式ガイド

ほとんどの国では、訪問は誰かが別れを告げたときに終わる。
ジョージアでは、それは単に出発プロセスの始まりを告げるだけだ。

時計を見ると、二十分前に出るべきだったことに気づく。
「そろそろ行かないと」とあなたは言う。
誰も動かない。
ホストは本当に驚いたような表情で、まるであなたが今すぐ別の大陸へ移住することを発表したかのようだ。
「そんなに早く帰るの?」
もうすぐ深夜だ。
あなたは明日仕事があると説明する。それは一応認められるが、夕べを終わらせる十分な理由とは見なされない。
「あと五分座ってて。」
あなたは座る。

誰かがまたケーキを切る。
新しい会話が始まる。
そうして、あなたのジョージア流の別れは正式に始まるのだ。

「Five Minutes」は時間の単位ではない

ジョージアでは、「五分」は常に正確な時間を示すわけではない。
時には本当に五分を意味する。
時には十五分を意味する。
時には次のような意味だ。
私はあなたを忘れていない。
まだ行くつもりだ。
どうか怒らないでいてほしい。

ジョージア人にいつ着くか尋ねると、こう返ってくるかもしれない。
「五分。」
すでに近くにいることもある。
鍵を探しているだけかもしれない。
ちょうどシャワーを浴びているところかもしれない。
重要なのは彼らの現在の地理的な位置ではない。
重要なのは到着するという大まかな約束だ。
だから「五分」は情報として理解すべきではない。
それは安心させる言葉なのだ。

Gabriadze Clock Tower in Tbilisi

„მოვდივარ“ は場所を示す言葉ではない

ジョージア語の単語 „მოვდივარ“ は「行くよ」「向かっているよ」という意味だ。
理論上は。

実際には、準備のいくつかの段階を表すことがある。
準備しようと考えている段階。
実際に身支度をしている段階。
さっきまでテーブルの上にあったものを探している段階。
誰かにみんなどこにいるか電話で確認している段階。
アパートを出る段階。
エレベーターを待っている段階。
車を動かし始める段階。
あるいは、時々、本当にあなたの方へ向かっている段階。
もしあなたが尋ねたら:
「もう出た?」
返事はまだこうだろう:
„მოვდივარ.“
これは必ずしも移動していることを確認するものではない。
意志を確認するのだ。

ジョージア語は温かさや詩情、歓待や古い歴史を伝えられる言語だ。
同時に、不要な物流上の詳細を避けるための完璧な一語も与えてくれている。

六時は場合によって意味が変わる

ジョージア人は時間厳守を完璧に理解している。
私たちは空港には早く到着する。
医者や雇用主、役所が駐車場を探していたからといって一日の予定を組み直すとは思わない。
しかし、社交の時間は別のルールに従う。

もしビジネスミーティングが六時に始まるなら、六時はだいたい六時を意味する。
誕生日会が六時に始まるなら、六時に到着すると店員がまだテーブルを並べていることがある。
あなたは一番良い服を着たまま立っていて、誰かが食器を並べている。
主役はまだ到着していないかもしれない。
招待客の半分はまだ家にいる。
誰かが誰かに電話して尋ねている。
「どこにいるの?」
„მოვდივარ.“
もちろん。」

ジョージアの祝いの場では、15分遅れはむしろ礼儀正しい時間と感じられることがある。
30分でも説明を必要としないかもしれない。
1時間は必ずしも遅刻ではない。
時にはそれ自体が入場の演出だ。
結婚式は独自の時間帯で動く。
招待状はその夜にイベントがあることを示す便利な目安だ。
正確な始まりは自然に生まれてくる。

それでも、誰も重要なことを見逃したりはしない。
料理は届く。
音楽は始まる。
テーブルは埋まる。
一時間しかいられないと言っていた人が四時間後にも踊っていることがある。
すべては起こる。
ただし招待状が示した時間通りとは限らない。

ジョージア料理を楽しむ

「ちょっとコーヒーだけ」は危険な提案だ

「ちょっとコーヒーでもどう?」
無害に聞こえる。
小さくて甘い何かと礼儀正しい別れを想像する。
しかし「ちょっとコーヒー」と言葉と、それに続く出来事との間には信頼できる相関関係がない。

まずコーヒーが出てくる。
次に果物。
次にチョコレート。
誰かがケーキがあるのを思い出す。
あなたはお腹が空いていないと主張する。
その言葉は無視される。
すぐにチーズ、パン、昼食の残り物、村から持って来られた自家製の何かが出され、それは試してみるべきだと勧められる。
別の人が到着する。
コーヒーがもう一度淹れられる。
家族、仕事、財産、政治、誰かの結婚、会ったこともない従兄弟の期待外れの振る舞いについて話し始める。

いつの間にか外は暗くなっている。
あなたはコーヒーを飲みに来たはずだ。
夕食を食べてしまっている。
誰もそれを不思議に思わない。
ジョージアでは、ちょっとしたコーヒーは短い出来事ではない。
それは一日の残りが静かに消えていくための扉なのだ。

「近く」は哲学的概念だ

時間はジョージアの道案内と組み合わさると特に面白くなる。
「遠いですか?」
「いいえ、すぐそこです。」

「すぐそこ」は角を曲がった先かもしれない。
または20分のドライブの後、だんだん狭くなる道と、最後はもう存在しない建物のそばで曲がることを意味するかもしれない。
道案内には次のような表現が含まれることがある。
「昔の薬局があった所で曲がって」
「ギオルギの家を通り過ぎて」
「このギオルギじゃないよ。別のギオルギね。」
「木が見えるだろう。」
ジョージアには木がたくさんある。
あなたは再び電話する。
「どこにいる?」
「教会の近くだよ。」
ジョージアには教会もたくさんある。
「どの教会?」
「古い方。」
その説明は役に立たない。

最終的に誰かが迎えに来る。最初の指示が不十分だったことに驚く。
「とても簡単だったよ。」
彼らにとってはかもしれない。
彼らはギオルギを知っていたのだ。

ジョージアの時間は瞬時にもなる

奇妙なことに、ジョージアの時間はいつもゆっくり動くわけではない。
時には恐ろしいほどの速さで動くこともある。
親戚から電話が来て、「近くにいるよ」と言う。
「どのくらい近い?」
「下の階。」
あなたはまだパジャマ姿だ。

友人が夕食を誘う。
「いつ?」
「今。」

誰かが来客があると告げる。
「いつ?」
「向かっているところだ。」
何人来るのか?
誰も知らない。

ここでジョージアの家庭の本当の力が明らかになる。
追加の椅子が現れる。
料理が増える。
六人用のテーブルが十四人を収容する。
誰かがパンを買いに行く。
別の人がチーズを切り始める。
瓶が開けられる。
隣人が何かを持って来てくれる。
二十分以内に、その家は最初から数日前に計画されていたかのような見た目になる。

おそらくだからこそ、私たちはいつも事前に計画しないのだろう。
もし必要なら、招待客がドアに到着する前に、ひとつの祝宴全体を組み立てられるという自信が集合的記憶のどこかにあるのだ。

ジョージアのホームステイランチ

容器を返しに来ただけなのに

ジョージアの家庭は、客を手ぶらで帰すことをめったに許さない。
残り物は詰められる。
ケーキは包まれる。
果物が加えられる。
あなたは抗議する。
あなたの抗議は退けられる。
「明日食べるでしょ。」
「家にもう食べ物があるよ。」
「とにかく持っていきなさい。」
これは交渉ではない。
すぐにあなたはいくつかの容器と、あなたが持って来たものよりも明らかに重そうな袋を抱えている。

数日後、空の容器があなたの台所に残っている。
返しに行かねばならない。
しかしジョージアの容器を空で返すことは間違っているように感じる。
だから何かを入れるのだ。
多分ケーキ。
多分果物。
多分自分の家族が作った食べ物。
そして容器を返しに訪れると、またちょっとしたコーヒーに招かれる。
そして循環はまた始まる。

ジョージアの歓待は即興に見えるかもしれないが、再利用可能な台所用品を通じて将来の接触を確実にする驚くほど効果的なシステムを発達させているのだ。

「家に着いたら電話してね」

ジョージアの時間は柔軟かもしれないが、ジョージアの気遣いは正確だ。
あなたが大人であろうと関係ない。
何百回も同じ道を通っていようと関係ない。
道のりがわずか十五分であろうと関係ない。
あなたは無事に着いたことを確認しなければならない。

もし忘れると、電話が鳴る。
「着いた?」
「着いたよ。」
「なんで電話しなかったの?」
「ちょうど着いたところだよ。」
「電話すべきだったのに。」
正しい答えはない。

その電話は距離についてのものではない。
訪問の最終段階なのだ。

あなたは客として到着した。
食べた。
話した。
何度か帰ろうとした。
食べ物を持ち帰った。
そして今、安全に家に入ったことを確認したら、その夜は公式に終わるのだ。

Batumi Astronomical Clock

もしかすると私たちは時間を理解しているのかもしれない

ジョージア人は単に遅刻するだけだと言うのは簡単だ。
確かにそういうこともある。
しかしそれが全てではない。
なぜなら私たちは、客が十分に食べていないことを正確に知ることもできるからだ。
私たちは、もう五分一緒にいることが、時計の五分よりも大切な瞬間があると知っている。
会話が真夜中を過ぎても意味を失うわけではないと知っている。
容器を返すことが誰かにもう一度会う理由になり得ると知っている。
そして別れを告げることがすぐに背を向けることを意味しないと知っている。

もしかするとジョージア人はいつも時間に無頓着なのではない。
ひょっとすると私たちは、時間はまず人に属し、その次に時計に属すると信じているのだろう。
時間はテーブルを囲んで伸びる。
出入口のそばで待っている。
エレベーターの扉を抜けて続き、バルコニーから降りていく。
誰もが無事に着いたと電話するまで起きている。

それでも、もしジョージア人が十時に別れを告げたら、十時四十五分前に出て行くとは期待しないでほしい。
そしてもし彼らが「五分で行くよ」と言ったら…
ゆっくり座ってくつろいでいてほしい。

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